皆さんこんにちは。
今回は、前田日明さんが明かしてくれたレベチな体験談についてお話したいと思います。
物語の始まりは、ソ連崩壊直前のロシアです。
ペレストロイカのロシアを訪れた前田日明
1991年、前田日明さんは自身の格闘技団体「リングス」の選手発掘のため、ロシア(当時はソビエト連邦)を訪れます。
この辺りの背景については前回記事にまとめてありますので、そちらをご覧ください。
前回記事⇩
当時のソ連はペレストロイカの真っ最中で、経済状況はかなり逼迫していたといいます。
ハイパーインフレにより貨幣価値は日々急落しており、物価は物凄いことになっていました。
当然物資の買い占めも起こり、わずかな日用品を手に入れようと店の前に長蛇の列で並ぶ民衆の姿が、首都ベルリンのそこかしこにありました。
年金生活の老婆が手編みのスカーフを通行人に売っていたり、寒空のなか頬を真っ赤に染めた少女がリコーダーを吹きながら募金を募っていたりと、街全体に物悲しい雰囲気が漂っていたのです。
この年の12月25日、ペレストロイカにより疲弊しきったソ連はクーデターをきっかけに崩壊し、ロシア共和国という国に生まれ変わることになります。
当時はスポーツ選手にとっても受難の時代だった
この時代は一般市民だけではなく、スポーツ選手達にとっても厳しい状況が続いていました。
以前は潤沢にあった、国からの援助がガクッと減ってしまったからです。
ペレストロイカ以前のソ連には「スポーツマスター制度」という年金制度があり、オリンピックのメダリストクラスであれば富裕層と言われるような生活を送ることができました。
しかし、ペレストロイカ以降はこの制度が廃止されてしまい、ほんの一握り以外のスポーツ選手は食うに困るような状況に陥ってしまいます。
特に割を食ったのがサンボの選手たちです。
サンボはソ連発祥ですがオリンピック種目ではなかったため、選手たちは国からの援助をほとんど受けられなかったといいます。
前田さんはこの状況に目を付け、サンボの強豪選手達を誘い入れてみることにしました。
サンボ選手を中心に勧誘を続けるも、選手探しは難航…
「リングスに出場してみないか?」
サンボの有名どころを廻って勧誘を続けましたが、彼らの反応は意外に芳しくありません。
なぜなら、当時の総合格闘技は世に産声を上げたばかりで、それが一体どんなものになるのか皆想像もつかなかったからです。
立技の選手からしてみれば寝技は反則ですし、寝技の選手からしてみれば打撃は反則になので、仕方ないといえば仕方がありません。
プロアスリートが打撃あり・投げあり・寝技ありなんて試合をしたら、選手生命があっという間に終わってしまう…という懸念が彼らにはありました。
このように選手勧誘するにも、まずは「総合格闘技というものがどんなものか」の説明から始めなければなりませんでした。
本人自ら実際にスパーリングをしてみせたり、試合のビデオを見せたりと工夫を凝らして説明する前田さん。
そんなふうにいくら粘り強く説得しても、「やっぱり危なすぎる」と選手の多くは難色を示してしまいます。
潮目が変わったのは、エカテリンブルグでのこと
そんなこんなで選手の開拓に苦戦していた前田さんですが、「エカテリンブルグという街に、サンボの強い道場がある」いう情報を耳にします。
エカテリンブルグは、ロシア中央部に位置する国内第4位の大都市です。
さっそく道場を訪れた前田さんですが、これが大当たり。
かつてサンボの世界チャンプにもなったことのある、ニコライ・ズーエフがリングスに参戦してくれることになりました。
彼はサンボの中でも禁じ手なしの「裏サンボ」の使い手として知られ、まさに総合格闘技にうってつけのファイターでした。
さらには、その道場のコーチから「ぜひ会ってほしい奴らがいる」と、別の道場まで紹介してもらいます。
それまで暗礁に乗り上げていた選手探しですが、ここにきてようやく潮目が変わりました。
紹介されたのは「カラテクラブ」という道場だった
ズーエフのコーチから紹介されたのは、当時のロシアではかなり珍しい空手の道場でした。
というのも、ソ連時代は「武道」と呼ばれるようなものは国が全て禁止していたからです。
ですが、ココの面々はその禁を破り、政府にバレないよう密かに空手の稽古に励んでいました。
「カラテクラブ」と呼ばれるその道場には師範のような存在はおらず、ビデオや技術書やビデオを頼りに自分たちで試行錯誤を続けている、いわば同好会のような集まりでした。
ズーエフのコーチからは「彼らを日本の極真会館とつなげて欲しい」と、前田さんは頼まれます。
実際に道場を訪れてみると皆熱心に稽古に勤しんでおり、想像よりも遥かにレベルの高い内容に驚かされます。
ここで出会ったのが、カラテクラブの顔役ともいえるバロージャ・クレメンチェフです。
日本の極真空手とのコネクションを求めていたクレメンチェフは、リングスへの参戦も快諾してくれます。
こうして、ロシアでの選手発掘は最終的に成功に終わったのです。
帰国後、「あるニュース」を目にする
ロシアでの選手探しも無事に終え、日本に帰国した前田さん。
翌年にはズーエフ、翌々年にはクレメンチェフも無事来日を果たし、それぞれがリングスで活躍を続けていました。
そんなある夜、前田さんが自宅のテレビをつけると「CBSドキュメント」という国際ニュースを取扱う番組が流れていました。
その日の特集は、ロシアについての話題です。
なんでも、ロシア軍が保有していたアタッシュケース型の核爆弾の行方が分からなくなってしまったそうです。
なんとも物騒なハナシです。
当時のロシアはペレストロイカやクーデター騒ぎにより、政府や軍の統治が正常に機能していませんでした。
その混乱に乗じて何者かが、5〜10前後もの核爆弾をロシア国外に流出させてしまったというのです。
アタッシュケースほどのサイズであれば持ち運びは容易で人目にも付きにくいため、悪意のある者の手に渡ったらとても厄介なことになってしまいます。
ニュースによると、その核爆弾はロシアのエカテリンブルグで消えたそうです。
「エカテリンブルグか…。ズーエフとかクレメンチェフに聞いてみたら何か分かるかな?」
ふと、前田さんは彼らのことを思い出しました。
核爆弾を流出したのは誰なのか?
さらにニュースは続けます。
アタッシュケース型の核爆弾とあわせて、ウランを濃縮するための溶媒も大量に国外に運び出されたというのです。
流出先はハッキリしないものの、リビア・イラク・北朝鮮のいずれかとみられています。
疑惑の国はいずれも西側諸国と対立していたほか、当時の世界情勢は核の脅威に対して非常に敏感であったため、このニュースは世界的な一大トピックとなりました。
では、一体誰が流出させたのか?
報道によると、エカテリンブルグを拠点とする経済マフィアとのことでした。
そのマフィアはロシア天然資源の宝庫とされるウラル山脈の鉱業に関わっており、エカテリンブルグでは以前から絶大な権力を誇っているようです。
このマフィアに所属する何人かは実行犯として、パリにある国際刑事警察機構(ICPO、通称:インターポール)により、既に国際指名手配されているとのことでした。
指名手配犯の顔写真を見た前田日明は絶句した
「なんか凄い事件だなー」
前田さんが報道を暫く眺めていると、指名手配犯4人の顔写真がパッと映し出されました。
その瞬間、前田さんは息を呑みます。
「…国際指名手配されているのは「カラテクラブ」と呼ばれるマフィアに所属する4人で…」
えっ?
カラテクラブ?
カラテクラブって…クレメンチェフの…
テレビに映っているのは、ロシアでこないだ会ったばかりのクレメンチェフの仲間達です。
前田さんはなかなか事態を飲み込むことが出来ません。
「いや、これはエライことになったな〜。あいつ(クレメンチェフ)大丈夫かな?」
ニュースで報道されている事件は、クレメンチェフが起こしたものなのか?
ここで前田さんは、来月ロシアでクレメンチェフと会う約束をしていたことを思い出します。
誕生パーティに招待された前田
翌月はクレメンチェフの誕生日でした。
前田さんは彼からパーティへのお誘いを受けてたのです。
真実を確かめるべく、前田さんは再びロシアに飛びます。
エカテリンブルグに着いた前田さんは、郊外にある彼の自宅に向かいます。
自宅の敷地は広大で、見渡す限り平原が広がっていました。
パーティ会場は代々木第一体育館かと見紛うような巨大な建物です。
そこは1階がクラブ、2階が床が総大理石のパーティホールという造りで、ホールには豪華な金のシャンデリアがダーっと天井に並んでいます。
そんな会場に集まった大勢の人々は各々パーティを楽しんでいる様子でした。
暫くすると、映画『スカーフェイス』のアル・パチーノを彷彿とさせる、全身白のスーツに身を包んだクレメンチェフが現れました。
彼は会場のど真ん中にある主賓席に腰を下ろすと、前田さんを隣に座らせ丁重にもてなしてくれます。
クレメンチェフに話を聞くには絶好の機会です。
お互い少しだけ英語が話せたので、直接クレメンチェフに事の真相を尋ねてみることにしました。
事の真相を尋ねた前田
「こないだ日本でみたニュースでお前らの話をしてたよ。仲間の4人も指名手配されてるみたいだぞ。」
クレメンチェフは事もなげに、次のような返答をしました。
「あぁ、ソイツ等ならあそこと、あそこと、あそこにいるよ」
クレメンチェフが指を指した方を見ると、確かにCBSドキュメントに出ていた面々がパーティを楽しんでいました。
「大丈夫なのか?(お前も)追っかけられてるんだろ?」
「エカテリンブルグにいるうちは、絶対大丈夫だ」
クレメンチェフがここまで言い切るのには理由がありました。
クレメンチェフたちはオールウェイズ・セキュリティ・OKだった
クレメンチェフは身の回りの警備にとんでもないお金を掛けていました。
乗っていた車は特注のベンツ・ゲレンデワーゲンでしたがボディは防弾装甲でした。
画像引用:Wikipedia
さらには、タイヤを撃たれてもパンクせず、窓ガラスも防弾ガラス+シールドという念の入れようです。
今居る自宅の敷地も周囲数百メートルには何も無いようなところで、唯一見える建物は4〜500m先にポツンと建っている小さな納屋だけです。
仮に誰かが敷地に入ってこようとしても、その前にクレメンチェフたちに発見されてしまいます。
当然、自宅は部下たちが24時間体制で警備しています。
「ここ(自宅)にいる限り、あいつらは200%大丈夫だ」
クレメンチェフは余裕の表情で言いました。
この時点でフラグ立ちまくりですが、実際しばらくのあいだは何事もなく平穏な日々が続きました。
プーチンが大統領となり、マフィア受難の時代が訪れた
時は経ち、2000年―。
プーチンがロシアの大統領に就任します。
プーチンは国内のマフィア組織を壊滅させるべく剛腕を振るいます。
経済マフィアの経済活動を全て禁止し、逆らおうとする者は、ロシア軍を導入して暗殺しまくりました。
ここで心配なのがクレメンチェフです。
当然彼も政府にマークされていたようで、暗殺計画が秘密裏に進められました。
いよいよ、彼にも最期の時が訪れます…
クレメンチェフは自宅の敷地で殺害された
ある日のこと―。
外での用事を済ませたクレメンチェフは自宅に帰るところでした。
彼が所有する広大な敷地を通り、自宅まで続く一本道を車で走っていたところ、スナイパーに狙撃されてしまいます。
車は防弾仕様のゲレンデワーゲンでしたが、狙撃に使われたのはそれを貫く徹甲弾でした。
狙撃元は自宅から4〜500mも離れた例の納屋です。
窓ガラスには16発もの弾丸が撃ち込まれており、クレメンチェフは即死でした。
こうして、世界を揺るがせたロシアンマフィア「カラテクラブ」のボスは死亡しました。
この事件は後の世界情勢にも大きな影響を与えた
では、アタッシュケース型の核爆弾はどこに行ってしまったのか?
クレメンチェフは生前、前田さんが核爆弾の行方について尋ねても最後までその所在を明らかにしませんでした。
真相はとうとう分からず終いです。
一説によるとアメリカがイラクに侵攻したのは、この核爆弾を所持している疑いがあったためと言われています。
9.11の後にイラクに侵攻しますが、アタッシュケース型核爆弾につながる証拠は出てこなかったそうです。
続いてアメリカが目をつけたのがリビアです。
最終的にカダフィ大佐の身柄が拘束されましたが、こちらも空振りに終わります。
これが本当であれば、2000年代に勃発した一連の中東紛争はカラテクラブがきっかけとなっていたということになります。
信じるか信じないかは貴方次第です。
信じるか、信じないかはアナタ次第…
いかがでしたでしょうか?
今回は前田さんがロシアで体験したエピソードを紹介させていただきました。
これが本当なら、とても恐ろしい話ですね。
このエピソードについて、前田さんは「都市伝説」としているため、実際の真偽は不明となります。
今回のお話が気になった人向けに、前田さん本人が語るYouTube動画のリンクを貼っておきます。興味があれば、ぜひご覧ください
さて、終わりに今回のテーマにまつわるアイテムの紹介です。
ロシアから流出したアタッシュケース型核爆弾と同じサイズといわれている「ゼロハリバートンのアタッシュケース」です。
仕事用カバンに使ったら、周りから一目置かれる存在になれるかもしれません。
当サイトは「開放」をコンセプトとしています。
今回紹介したもの以外で、面白い都市伝説やエピソードがありましたら、コメント欄にて知識を開放をして頂けると幸いです。
扱ってほしいテーマがある場合も、ぜひコメント欄までよろしくお願いします!
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